HAMARI Stories

【指令】L-DOPAを製造せよ!

お手元袋に書かれた特命事項

1966年1月の早朝、髙美 仁三郎社長(当時)は研究部長と研究部員 数名を呼び出すと、構造式が書かれた料理屋のお手元袋を差し出しました。
「米国がこの化合物を懸命に探している。最優先の仕事とするので、至急取り掛かって欲しい。一番に製品化しないと、弱小「浜理薬品工業」など相手にしてくれない。」
書かれていたのはL-DOPAの構造式。パーキンソン病の特効薬として切望されている化合物でした。

L-DOPA
L-DOPAの構造式

「実験は現場でせよ」検討から超特急での製造開始

「他のメーカーは既に取り掛かっているかもしれない」選ばれたのは、精鋭の研究員3名。出発原料の選択から、ラセミ体合成、光学分割、製品化を分担して取りかかりました。
製法のめどが立ったところで、社長自らが試作品を持って営業にまわりました。数社の無駄足の後、最後に声をかけたA社からは、訪問直後に幹部が工場に飛んできて言いました。「月産で何キログラム製造できるか?直ぐにでも生産にとりかかって欲しい」
詰めなければならない工程が山のようにありましたが、「実験は現場でせよ」との社長命令が下り、製造開始となりました。

高槻実験室
高槻工場 実験室

ついにL-DOPAの量産に成功!

主原料や中間原料は協力会社に製造委託して調達。光学分割は、当社が製造していたL-アルギニンを使用するというアイデアが幸運にもうまくいき、求めていたL体が結晶化、L-DOPAが得られました。さらに、着色や結晶形の安定化という課題を解決して、月産200㎏、次いでグラス反応釜2,000Lの導入により800㎏、最終的には月産1,200kgの生産を実現させました。当時、新聞、週刊誌では「パーキンソン氏病の特効薬L-DOPA 『浜理薬品工業』が量産に成功」と大きく報道されました。

その後、FDA(米国食品医薬品局)の査察を受け多くの改善指導命令が出され、その対応に追われました。加えて米国大手メーカーが生産を始めてからは価格が大幅に値下がり。採算が合わなくなり、やむなく製造中止となりました。
残念ではあったものの、小企業「浜理薬品工業」が世界に先駆けてL-DOPAの工業化に成功したことは歴史に残る快挙でした。

高槻工場
高槻工場

L-DOPA:医薬品としてはレボドパと一般的に呼ばれています。血液脳関門を通過できる性質を持ち、体内で酵素の働きによりドーパミンに変わります。1970年代におけるレボドパの登場は、パーキンソン病の治療に画期的な進歩をもたらしました。

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